昨今、すっかり明るい話題が少なくなった雑誌業界。相次ぐ休刊やリニューアル、超豪華付録などで何とか生き延びる道を模索する中、“読者に寄り添わない”編集スタイルを貫いているのが右近亨・編集長の手掛けるメンズファッション誌「ゼム マガジン(Them magazine)」だ。「『新しいアイテムを買うための雑誌』ではなく、『新しいファッションを創る雑誌』」という考えのもと、挑戦的なファッションストーリーを軸にした編集スタイルを貫き続けて間もなく3年になる。この編集スタイルは、右近編集長のどのように作り上げられたものなのか。その背景には「メンズクラブ」に憧れた高校時代、編集アシスタント、ライター、放送作家、落語家の弟子、メンズ誌ディレクターなどの多彩な経歴と、一貫してぶれない信念があった。
高校1年の時からメンズファッション誌の編集者になりたいと明確に考えていました。当時「メンズクラブ」の熱心な読者で、フリーの編集者として活躍していた寺崎央(ひさし)さんに憧れていたんです。「メンクラ」で働くにはどうすればいいんだろうと自分で調べたり、手紙を書いて編集部に送ったりしていました。編集者の経歴を見ていると、日本大学芸術学部卒業、早稲田大学卒業などと書かれていたので、まずは東京の大学に行かなきゃいけないんだと思い、北海道から上京しました。
大学生の頃は「メンズクラブ」以外にも刺激的なメンズファッション誌がどんどん創刊していたので、軒並み履歴書を送っていました。しかしどこも「まず大学を卒業してから来てください」という返事で、今すぐ働きたかった自分としてはもどかしかった。そんな中、やっと「来てください」と連絡をくれた雑誌があったんです。これでやっとファッション誌で働ける。もう大学は辞めようとワクワクしながら行ってみたら「君の熱意は伝わった。でも、残念ながらうちは先月号で廃刊になりました」と言われて、がっくり(笑)。大手出版社系にも履歴書を送りましたが、一流大学ではなかったので願書を出しただけでアウト。ちなみに、流行通信社も落ちました。
それでも雑誌をやりたかったので、業界人が集まるバーなどを調べ、コネを作ろうと頻繁に通いました。そこで知り合った友人がスニーカー雑誌でアルバイトすることになり、そのツテをたどって僕もフリーの編集者が集まる会社メディア マジックでアルバイトを始めたんです。企業に就職という感じではありませんでしたが、すごく嬉しかった。両親は業界に詳しくなかったので「とりあえずやりたい雑誌ができるならいいじゃないか」と言ってくれました。
会社には3人のフリー編集者がいました。僕の師匠は「オリーブ」(マガジンハウス)創刊に携わった方で、他にもアウトドア雑誌「ビーパル」(小学館)の仕事をしていた方、ウインドサーフィンやスキー雑誌を手掛けていた方がいて、彼らのアシストをしていました。「オリーブ」では当時流行していた“イタカジ”のウエアを、「ビーパル」では「コールマン(COLEMAN)」のランプなどをリースし、撮影後に返却するというような業務でした。そのうち当時流行していたオートバイやウインドサーフィンの雑誌でファッション企画をやらせてもらえるようになりました。でも、ファッション誌がやりたかったのでどこかモヤモヤした気持ちがありましたね。3年目に「新しくオートバイの専門誌をやるからやってみないか?」と言ってもらったのですが、自分はファッションやカルチャーでやっていきたかったので、フリーで仕事を始めることにしました。
最初は、なかなかファッション誌の仕事はありませんでした。そんな時、落語家の立川談志さんがおもしろい制度で弟子を募集しているのを知りました。ABCの3コースに別れていて、Aコースには尊敬していた放送作家で「宝島」編集長でもあった高平哲郎さん、北野武さん、作家の影山民夫さんなど、他分野で活躍する人たち。Bコースにはサラリーマンをやりながら月謝を払って参加する落語同好会的な人たち。Cコースがいわゆる“弟子”的な人たちがいました。これはおもしろそうだなということでCコースに入門し、フリーで編集の仕事をやりながら談志さんの運転手や家の掃除をしていました。当時、僕のすぐ上には立川談春さん、すぐ下には立川志らくさんがいて、甲子園優勝投手のような人たちに挟まれて僕がいました(笑)。
古典の名人のようになりたくて、談志さんに稽古をつけてもらいました。そうしたら「お前は北海道生まれでアクセントも違うし、喋り方も声の質も名門のものじゃない。弟子入りするなら林家三平とかこん平とか、林家ペー・パーのところにでも行った方がいい」と言われ、落語の才能がないんだなと実感させられました。もうフリーで編集をやるしかないと決意し、弟子を辞めました。
テレビの仕事をしている友人のツテで、深夜の若者向け情報番組の放送作家をやることになったんです。最初はスニーカーの情報を提供していた程度でしたが、最終的には台本まで書いていました。ダジャレを入れたり、オチをつけたりみたいなことをやっているうちに、その番組が「ポパイ」(マガジンハウス)編集部の人たちの目に留まったんです。それで「あの番組をやっている奴は誰だ」ということになり、「ポパイ」に呼ばれて仕事をするようになりました。
僕がいた頃の「ポパイ」編集部には、スタイリストの山本康一郎さん、野口強さん、祐真朋樹さん、現在「フィナム」発行人の蔡(さい)俊行さんがいました。でもある時期から、ファッションっぽい仕掛けや提案が「ホットドッグ・プレス」(講談社)のセックス特集や女の子特集に押されるようになり、受けなくなってきたんです。例えばフレンチアイビーっぽいスタイル“FDG(エフデジェ)”を提案したんですけど、全然流行らなかった。本当に何をやってもダメでした。そのうち編集部も新体制になり、週刊化したりと「ポパイ」そのものが変わってきたので、僕たちは辞めたんです。野口さん、祐真さんと雑誌を作ろうと動いたこともありましたが、結局それぞれの仕事が忙しくなってきて実現しませんでした。
2003年に「ヒュージ」創刊が決まって、編集アシスタント時代の後輩だったデッツ松田さんに「一緒にやりませんか?」と声をかけてもらいました。デッツさんがファッション・ディレクターとして表紙やタイトルを考え、僕が編集ディレクターとしてカルチャーページなどを作っていました。最初はテレビの仕事もやっていましたが、「ヒュージ」が月刊化される頃にはそれだけをやるようになっていました。エディ・スリマンの「ディオール オム(DIOR HOMME)」がものすごい勢いになってきた頃から、「ヒュージ」もモードな雰囲気にシフトしていくことになりました。
創刊して約5年間は売り上げが右肩上がりでした。といっても部数がそんなに増えていったわけではなく、「ヒュージ」のことを海外ブランドの本国が気に入ってくれて、広告収入が増えたからなんです。僕はそんなこと考えながら誌面作りをしていた訳ではありませんが、ラグジュアリー系ブランドが本国の指示で急にどーんと広告を入れてくれたこともありました。そのやり方に手応えを感じてからは、あえて特集をダンス、花、詩、食など、1号ごとにがらっと変えて、クライアントにも気に入ってもらえる誌面作りを意識していました。
出版社はやはり売り上げ部数を伸ばしたいので、だんだん自分の考えとは違うなと感じるようになりました。これまでずっとフリーだったので、やりたいことをやってきました。でも根本的に大きなことはできません。出版社が辞めるといったら辞めないといけないし、路線を変えると言ったら変えるしかない。でも自分のやってきたことは、ミニマムのサイズでやれば継続できるという確信があったので「ヒュージ」ディレクターを退任し、自分の雑誌「ゼム マガジン」を立ち上げました。
まだまだゼロ号に近い感覚です(笑)。「ゼム マガジン」は20代の若いスタッフで作っているので、僕が立ち上げの時に考えていた成熟度には及んでいません。本と会社を作るのが同時だったので、人材を育てるところからスタートしていますから。それに、僕がアシスタントだったころに比べると、編集者の役割も大きく変化しました。今は編集者の数も少ないので物撮りのページが減り、ファッションストーリーのページが増えた分、クリエーターに頼ることが多くなりました。編集者の手間がだいぶ少なくなった分、アート・ディレクターやデザイナーの手間が増えたのではないでしょうか。パソコンやインターネットによって雑誌ができるまでのスピードも劇的に速くなりましたね。
そう思います。僕が履歴書を送りまくっていた時は、面接に長蛇の列ができるぐらい人気の職業でした。インデペンデント系雑誌の面接でも、10時に会場に着いて順番が回ってきたのが14時でしたから。雑誌を読む人も、雑誌そのものも減っています。例えば今、男子校の1クラスに40人いたとして、メンズファッション誌を読んでいる人は3人いるかいないかだと思います。僕の時代だと「メンクラ」を読んでいる人が半分弱はいました。特にメンズファッション誌は、バイクや囲碁、戦艦専門誌「丸」のようなコアな専門誌と同じくくりになっています。僕は「ゼム マガジン」のことを一般誌だと思っていますが、“モードの専門誌”という印象を持たれていたり、下手すると音楽専門誌の棚に置かれていたりしますしね(笑)。
もともと、うちに来ていた大学生のアルバイトが雑誌のことを何も知らなかったので、そういう人たちに向けて書こうと思ったのがきっかけです。編集者を目指したり、興味をもつ若者が少しでも増えればいいなと。それから5回ほど書いて、アルバイトに「読んだ?」と聞いたら、「何のことですか?」と言われて(笑)。これだけ至近距離にいるバイトでさえ読んでないのかと。もはや誰も読んでいないんだなと思ったら、雑誌のことを知り尽くした中島敏子「ギンザ」編集長や他誌の編集長クラスの方々、PRの偉い人たちに「ブログ読んでますよ。勉強になります」とか言われて、ツッコミネタになっただけでした。もう、筆も折れました。そういう時代なんですよ。上の世代の演歌みたいなもの、ファッション兄弟船です(笑)。
「ゼム マガジン」を少しでも多くの人に知ってもらうこと。少なくとも、音楽専門誌の棚に置かれないようにしたいです(笑)。あとは公式サイトも少しずつ充実させているところです。ビジュアルを作る力を生かして、ウェブでもクライアントとの取り組みができるように構想を練っているところです。